プロフィール

曲がったことが嫌いな九州男児

焼酎ではなくビールを愛する

勝守 竜馬(かつもり りょうま)

1988年5月4日生まれ(辰年・牡牛座)

血液型:О型

動物占い:56番気取らない黒ヒョウ

熊本県熊本市生まれ 熊本県荒尾市育ち

東京都江東区猿江在住(横浜市緑区長津田→川崎市中原区市ノ坪→川崎市多摩区宿河原→江東区猿江)

ファイナンシャルプランナー、セミナー講師

ひまわり会先生(青空幼児教室)

父が「坂本龍馬」を好きで名づけられた名前です。坂本龍馬のように時代を切り開いてほしいという願いを込められました。そんな人間になれるよう日々精進しています!

宮崎県都城市のぞみ保育園(現在の都城医療センター敷地内、看護学校の裏にありました)

宮崎県都城市立祝吉小学校

熊本県荒尾市立桜山小学校

熊本県荒尾市立荒尾第四中学校

福岡県私立大牟田高等学校(普通科)

代々木ゼミナール福岡校(香椎寮)

青山学院大学文学部英米文学科(伊達ゼミ)

のぞみ保育園~祝吉小学校

父の仕事が勤務医(外科)のため、幼少期に2度引っ越しを経験。

一度目は熊本県熊本市から宮崎県都城市への引っ越しで、その時はまだ4歳だったためほとんど覚えていません。

引っ越し先ではのぞみ保育園に通いました(保育園初日はとても行くのが嫌で、大泣きしたことは不思議と鮮明に覚えています)。

自宅は病院の官舎(病院敷地内)で、のぞみ保育園も同じ敷地内(看護学校の裏)だったため、とても近かったです。

毎日のように一つ下の妹と外を走り回っていました。

保育園に通うまでには土や砂利の駐車場があったり、広場みたいな場所があったりして、そこで自転車に乗れるようになったり、サッカーをして遊んだりしていました。

保育園には楽しかった思い出しかありません。

先生たちも優しい方ばかりで、友達もたくさんできました。

年下の子の面倒を見てくれてありがとうと先生に褒められたこともありましたね。

ただし、お遊戯回だけは嫌いでした(恥ずかしいからです)。

この頃、サッカークラブ(太陽スポーツクラブ)・スイミングも始めました。

スイミングはすぐにやめてしまったんですが、サッカークラブは引っ越す小学校一年生まで続けました(その後も小学校・中学校・大学まで継続)。

そんなサッカーも辞めそうになったこともあったんです。

理由は友達と遊ぶ時間がサッカーに取られるのが嫌だからというもの。

それでも続けたのは、やっぱりサッカーが好きでしたし、確か両親に続けた方がいいんじゃないかと説得されたことも大きかった気がします。

その後、祝吉小学校に入学。

ランドセルはその頃は珍しい青(水色に近い、薄くて鮮やかな青)でした。

周りはみんな黒か赤だったので、結構目立っていたと思います。

とても広い学校で、運動場や体育館が大きかった記憶があります。

何でも大きく見えていただけかもしれませんが、とても大きな木も鉄棒などの遊具脇に生えていましたね。

校舎は木造で、その床を雑巾で拭き掃除したり、夏休み前にニスを塗ると色が濃く変わってたんですよね。

小学校でも一学年に5クラスあって、生徒数も多かったです。

一年間しか通えなかったのでこの時の友達は数えるほどしか覚えていませんが、近所の同級生の男の子とはよく遊びました。楽しかったなー。

田んぼの畦道があったり、きれいな川が流れていたり・・・わずか4年でしたが住むことができて本当によかった町です。

その頃の私は宇宙が好きで、その近所の友達が引っ越しの時に手書きのメッセージが書いた宇宙の図鑑をくれたんですよね。

たくさんのいい思い出ができた都城を離れる時は大泣きして、「もう引越したくない!」と妹と一緒に両親にお願いしました。

引っ越し先は熊本県荒尾市。

父親が病院にお願いしてくれたようで、それが最後の引っ越しとなりました。

ちなみに当時ハマっていたものは、ボール遊び、ウルトラマン、ゴジラ、ガメラ、プラレール、忍者戦隊カクレンジャー、宇宙(特にブラックホール)、です。

桜山小学校~大牟田高校

小学校2年生~高校3年生まで暮らしたのは熊本県荒尾市。

両親は今もこの荒尾市に住んでいます。

祝吉小学校と違って、桜山小学校は2クラスしかなく、学校の広さも小さく感じました。家は今回も病院の貸し出している家で、小学校は家の窓から見える距離でした。走って1分です。

遅刻はほぼなかったと思います。

登校初日は転校生って緊張しますよね。

「友達出来るかな?」って不安いっぱいでした。

でも、みんな優しく迎えてくれてすぐに友達ができました。

やっぱりランドセルは目立っていたようで、クラスのみんなはここでも黒か赤。

1人だけピンクのランドセルの女の子がいて、心の中で「仲間だ!」と思ってました。

この頃も、小学校のグラウンドで毎日のように昼休みや放課後にサッカーをしたり、ゴムボールで野球をしたりしていました。

ゴムボールの野球ではプラスチックのバットにビニールテープを巻いてボールが飛ぶようにしていました。

初めて生のスポーツ観戦をしたのは福岡ドーム(現ヤフオクドーム)での野球の試合でしたね。

サッカーの試合を初めて観たのは日韓ワールドカップの時に熊本でキャンプを行っていたコスタリカとどこかの試合でした(忘れて思い出せません笑)。

4年生からは部活が始まり、サッカー部で毎週月・水・金の放課後16~18時くらいまで練習しました。

ドリブルの練習、両足蹴れるように利き足でない左足の練習、フリーキックやセットプレー、PK練習など遊んでるような感覚で楽しく、でも夢中になってやってました。

キャプテンも務め、市内の大会ではほとんど優勝できていましたが、世界は広いですね。

市を飛び出すと強いチームばかりで、Jリーグのチームのようにバックラインでパスを回されて、手も足も出ずに負けることも多発。

1学年下のクラブチームと試合をした時も、小さいのに体の使い方が上手くて、全然ボールが取れず完敗なんてことも。力の差を感じました。

それでも好きだったのでもっと上手くなりたいと思って毎日ボールは蹴ってましたね。

小学校でも好きな教科はやっぱり体育。

運動会のリレーでアンカーで走ったりもしてました。

ドッチボールも好きで、授業以外でも何人かと集まってやってました。

図工の時間に段ボールで秘密基地を作ったのも楽しかったです。

その頃ボール遊び以外にやっていた遊びは、木登り、カードゲーム(遊戯王)、テレビゲーム(ゲームボーイ・任天堂64・プレイステーション)。

夏休みは虫取りとプールでした。

学校から1~2分のところに駄菓子屋があって、お小遣いをもらってお菓子を買ったり、ゲームをしたり、冬にはコマを買って友達と対戦してました。

このコマって木製の、自分で組み立てるコマで、本体のコマ以外に回すための紐、コマに打ち付ける芯(鉛で、この部分が地面と接しており軸の役割)を買い、トンカチで芯を本体に打ち付けて完成させます。

コマを回すための投げ方も数種類あり、この時に相手のコマに当てて割ったりするんです。

冬の時期は毎年数か月間はこのコマで遊んでました。

中学校に上がってもサッカー部に所属し、1年生の時から3年生の試合に出させてもらっていました。

中学生になると練習がきついと感じ始めて、特に毎週月曜日のランニングの日は憂鬱でした。

この日はボールを使わずに、筋トレやインターバルありの中距離走、学校の外周を10周走る長距離走などのフィジカルトレーニングの日なので、きついだけの日なんです。

雨の日には校内の階段を走ったり、つらかったですね。

サッカー以外でも好きなことはあまり変わらず、部活のない日は友達誰かの家に集まってテレビゲームしたり、自転車でショッピングモールに行ったりしていました。

勉強は1学年150人ほどいる学年の中で、30番以内ぐらいでした。

よかった時で9番か10番でしたね。

英語と社会(歴史)が好きで、この教科だけは10番以内に入ったりしていましたが、数学が嫌いで足を引っ張っていた結果、順位は伸びず上には行けなかったです。

父親は数学が得意なので、泣きながら数学を教えてもらったこともありました。

そういえば、この頃にみんなで集まって勉強することもやってみました。

1人でやらないと集中できないことにすぐに気づいたので長くは続きませんでしたが、勉強以外はほとんど常に友達と一緒にいました。

高校受験では合格間違いないと言われていた公立高校に不合格となり、滑り止めの私立高校に行くことに。

先生たちからも不合格結果に驚かれましたね。

両親曰く「これくらいで大丈夫だろうという勉強への姿勢の低さ、勉強時間の少なさ」とのこと。全くその通りでしたね。

高校は福岡の大牟田市にある私立大牟田高校に進学しました。

熊本と福岡の県境にある高校ということもあり、どちらの県からも生徒が集まっていました。

入ったのは、普通科特進コースという大学受験を目指す学科です。

この学科は2クラスしかなく、また他の学科とは離れた棟だったので、隔離されたような、そんな感覚がありました。

中学校ではあまり話さなかった友達とも高校が一緒になったことで仲良くなったり、他中学校のサッカー部の顔だけ知っているという人が隣の席になったり、友達には恵まれていたと思います。

また、全く知らない福岡の中学校の人と友達になることもでき、私立だからこその友人関係の広がりも高校では経験できました。

受験失敗という経験から高校では大好きだったサッカーは続けず、勉強一本。

ただし、これはよくなかったと今でも思いますが、勉強にメリハリがなく、ダラダラと勉強してしまったと後悔しています。

先生に怒らなれないように勉強していた気さえしますね。

だからこそ、体育の授業が楽しみでしょうがなくって、その時間が心から楽しめていた唯一の時間でしたね。

高校でも英語と世界史は好きだったので、この教科の成績は良かったです。

世界史は大学センター試験で3問しか間違えなかったりと、楽しいことは苦にならず続けられるので、自分から進んで勉強していました。

高校3年生だったと思いますが、英語教師になりたいと思うようになり、そこから大学受験をより意識するようになりました。

大学受験はというと、センター試験での世界史と英語以外の結果が悪く、第一志望の国立大学を急遽変更。

およそ1ヵ月後に公立大学を受験することにしました。その大学は私立文系のように、国語・英語・社会の文系教科3教科で受験可能で英語が得意な学生が集まる大学で、先生に勧められ、受験を決断。

対策も先生たちから教わりいざ受験。

結果はというと、まさかの不合格。

人生で1番のショックでした。

ただここでも私自身に問題があり、先生から教わった問題の解き方の順番を無視してしまったのです。

英語には自信があったので、問題なく解けると思っていたのですが、まさかの時間が足りなくなり、問題を数問残して試験時間のタイムアップ。

英語の配点が高かったため、本来私にはプラスの効果があるはずでしたが、まさかの逆効果。

先生には未だにこの不合格原因を言えていません笑。

その他私立大学も受験していて合格していましたが、浪人の道を選びました。

不合格の実感があまりなかったのか、悔しさを感じることが出来ていなかったのですが、この浪人を選んだ日の夜に両親への申し訳なさと悔しさで布団の中で泣いたことを覚えています。

ここで荒尾市の紹介を1つ。

人口5.3万人のこの市には、なんと世界文化遺産があるんです。

「三池炭鉱」という炭鉱なのですが、ご存じでしょうか?

明治時代に見つけられた炭鉱なのですが、実はこの炭鉱、透視によって見つけられた炭鉱なんです。

この透視を行った人物が、あの有名な映画リングで、貞子の母親のモデルとなった御船千鶴子という人物なんです。

また、三井グリーンランドという遊園地もあり、心霊現象の起こるお化け屋敷があるとテレビでは何度も取り上げられています。

私はこのグリーンランドでアルバイトしたことがありますが、ある社員の方が心霊現象を目撃した従業員もいるよと教えてくれました。知る人ぞ知る、そんな街です。

代々木ゼミナール~青山学院大学

4月から始まると思っていた大学生活はお預けとなり、もう1年大学受験のための勉強することを決めましたが、家での勉強だと集中できないと思ったので、両親にお願いして予備校の寮に入らせてもらいました。

場所は熊本の実家から電車で1時間程のところにある福岡市。

通い始めた代々木ゼミナール博多校は博多駅から徒歩5分ほどのところにありました。

寮は博多駅から電車で10分程の香椎駅にあり、今はこの寮はなくなってしまったのですが、地上6階建てぐらいで、2~3棟もあったんですよね。

以前は入寮する人数が多かったようですが、私が入った年は使われていない階もありました。

この寮生活ですが、もちろん勉強のためにスタートさせました。

ですが、入寮後の気分は合宿。

本当に多くの時間を一緒に過ごしたんですよね。

1人1部屋で、私は部屋にベッドと勉強机と本棚しかない棟の部屋でした。

九州全県から生徒が集まっていたので、九州各地の素晴らしい友達を作ることができたこの1年間はとても貴重な1年間になりました。

特に寮生同士は学校で勉強している日中以外も、食堂で朝ご飯や夜ご飯を食べたり、大浴場に入ったり、自習室で勉強したり、友達の部屋に行って勉強を教えてもらったり、洗濯をしたり、と多くの時間を一緒に過ごすんですよね。

本当に濃い1年間を過ごしたので、あっという間ではあったんですが、5年間ぐらいの時間を一緒に過ごしたような、そんな感覚がありました。

彼らとは今でもたまに会ってます。

1年間の浪人生活後、青山学院大学文学部英米文学科に入学。

英語の勉強をしたければ、東京のミッション系の大学がいいのと思いますよと予備校の先生からのアドバイスいただき、この大学を選びました。

私の在学時は、1~2年生は淵野辺キャンパス、3~4年生は渋谷キャンパスという分かれ方をしていて、そのため引っ越しをしないで済むようにJR横浜線と東急田園都市線が通っている横浜に住んでいる長津田(横浜市緑区)に住みました。

この長津田には社会人4年目まで住んでいたので、結果8年間住みましたね。

大学では授業はそこそこにして、アルバイトとサッカーサークルの日々。

アルバイトは、モンテローザ系居酒屋(ホール・ドリンカー)、洋食レストラン(網鉄板で肉焼)、家庭教師(中学生3人を担当)、ユニクロ、引っ越し(単発)を経験し、週3~4ぐらい働いていました。

サークルは迷わずサッカーを選び、数あるサッカーサークルの中でも、とても先輩が優しくて面白く、同じ学年の人とも気があったサッカー愛好会に入りました。

練習は週2で毎週水曜日と土曜日の午前中の活動が基本でした。

4年振りのサッカーはとても楽しかったですが、やはりブランクが長く、体力や筋力も落ちてしまっていて思った動きができないなとも感じていましたね。

真剣に練習するサークルで、そこも好きなポイントでした。仲のいい友達や先輩ができたおかげで、サークル以外の時間も彼らと過ごす時間がとても多かったです。

居酒屋での飲み会はもちろん、宅飲み、カラオケ、ボーリングなど楽しかったですね。

ボーリングはチーム戦が多くて、先輩に迷惑かけられないプレッシャーが半端なかったです。

ビールが好きになったのも、サークルメンバーのおかげです。

町田にある一休という居酒屋で1杯100円でビールが飲めるビール祭りがあるのですが、この時に初めて生ビールを飲み、そのおいしさに気付きました。

20杯近く飲んだので記憶がないのですが、この日からビール好きに。

一方嫌いなのは、鏡月や眞露といった焼酎。

大学時代に飲み過ぎて(飲まされ過ぎて?)、この味が嫌いになってしまいました。

また、海外にも初めて行くことが出来たのも大学時代でした。

初めていった旅行先はカナダで、1週間ほどのツアー旅行でしたが、ナイアガラの滝やカナディアンロッキーといった雄大な自然が今でも目に焼き付いています。

その後大学4年生時にはホームステイでカナダのトロントに行きました。

夏休みを利用した短期留学だったのであっという間でしたが、ホームステイ先のフィリピン人家族、この家にホームステイしていたサウジアラビア・マレーシアの学生、現地学校で同じクラスになったメキシコ・スペインの学生、気さくに話しかけてくれて本当に嬉しかったです。

授業で「どういう状態で死を迎えたいか」「どんな死に方をしたいか」というディスカッションがあった時に、私が答えた「苦しみたくないので、お酒で記憶を無くして死にたい」という意見にクラスの多くの友達が納得していて、特に先生がめちゃくちゃ笑っていたんですよね。

こういう意見や感じ方も世界共通なんだなとか感じることが出来たのも嬉しかったですし、以前より日本人以外の国の方々がより身近に感じられるようになった出来事です。

そして、カナダでも例外なくお酒を飲みました。

印象的なエピソードが、メキシコ人・スペイン人・私の3人が飲み過ぎて次の日の授業に遅刻して、人生で初めて廊下に立たされました。今ではいい思い出です。笑

社会人~現在

大学には英語の教師になるために入学しました。

思い返すと、小学生の頃から友達に勉強など教えることは結構好きでした。

「わかりやすいね」と言われることが多かったのもあって家庭教師のアルバイトをしたわけですが、教えることはもちろん楽しかったです。

ただ、学生時代にホームステイしたり、海外旅行に数か国行ったこともあり、「英語の先生になると海外の人と仕事できないな」「狭い世界しか知らないで、人生楽しいか?」と思うようになっていったんですよね。

その結果、「先生になって英語を教えるより、英語を手段にして海外と関わる仕事がしたい」と、気持ちが大きく変わりました。

新卒で入社した会社は、アパレル商社である株式会社ABISTE(アビステ)。

表参道に本社を構え、主にマダム向けのアクセサリーや雑貨をアジアや欧米より輸入して販売している会社です。

国内の高級ホテル中心に出店しており、国内・海外合わせて約180店舗を展開。

そんな会社にバイヤー志望で入社をしました。

ただ、バイヤーになるには3年の営業経験が必要だったので営業部に所属し、国内のアパレルメーカーやブライダル関連会社、スポーツ関連会社などにテレアポをして新規開拓をするという日々を約2年6ケ月を送ったのです。

提案内容は既存商品を卸すか、完全オリジナル商品を相手先のブランド名で作るOEMという提案の2つ。

今の社長が一代でここまで大きくしてきた会社なので、「営業先は全て新規開拓で見つけて来い!」と言われ、基本的に新規開拓の仕事しか任せられず、正直つらい数年でした。

いや~、あの時期には戻りたくないですね。(笑)

そんなABISTEでも楽しいこともありましたよ。

とあるプロ野球チームのオリジナルグッズを作ることができたんですよね。

入社2年目の冬でした。

そのチームが同じ九州繋がり、ということもあったのかもしれません。

会社としても初めてそのチームとの契約を結ぶことができ、この時はとっても楽しく仕事ができていました。

ABISTE時代の一番いい思い出です。

25歳の時に、メットライフ生命保険に転職、その約3年後に保険代理店であるFPパートナーに移籍。そ

して、さらに保険だけではなく、証券や教育にも携われる仕事をしようと思い、現在はペレグリン・ライフ・コンサルティング株式会社に勤務。創業メンバーの1人として、自由に働いています。

そして、それと同時にひまわり会の先生としても働き始めました。ひまわり会とは、都内にある幼児教室の名前です。

現在火曜日と金曜日の14:00~17:00まで子どもたちと体を動かすことを中心に、自然の中で遊んでいます。

趣味~好きなこと

【ゴルフ】

ゴルフは2020年2月から始めました。

4~5年前よりずっと誘われていたものの、興味がなく断り続けていました。

たまたま行った打ちっぱなしで、その楽しさに気づいてしまい、即ゴルフ道具を揃えてゴルフスタート。

小さい頃に父が庭でアプローチ練習をしていた時に遊び程度で打ったことがあったり、遊園地のパターゴルフなんかで遊んだことがある程度で、一からのスタートでした。

練習場には週1で通い、これまでラウンドしたのは80回ほど。

現在のベストスコアは84。

これまで100切り間違いなしと思われたラウンドの最終ホールで大ごけしたり、90切り目前でミスしたりなど精神面の弱さが露呈し、この状態です。

ゴルフを始めて2年以内に90切りという目標へ向けて練習していましたが、クリアならず。もう1年延ばし、3年以内に90切りを目指すことにしました。

3年目にしてようやく90切り達成。

練習では100ヤード以内のアプローチ、コース上での考え方や体の向きなどにシフトして行っています。

得意なのはアプローチ。

練習が全く苦ではないので、めちゃくちゃ楽しく練習しています。

【熱帯魚観賞】

熱帯魚は中学生3年生の時に、友達にもらって飼育をスタートしました。

もらった熱帯魚は国産グッピーでした。

音もほとんどない静かな45㎝水槽の中で、ゆったりと優雅に泳いでいる姿に魅了され、「ちょうだい!」と稚魚をもらったのがきっかけです。

そこからグッピーだけでもグラス系、モザイク系、タキシード系を飼育、その後はテトラなどの小型カラシンやアピストグラマやディスカスなど小型シグリッドも飼いました。

孵化に成功したときは嬉しかったですねー。

また水草にもハマり、南米モスなどのモス系水草やパールグラスなどの有茎草を育てて販売していた時期もありました。

最盛期には90㎝水槽から20㎝水槽まで全部で水槽が11本ありました。

現在はだいぶ落ち着いて、30×30×40㎝の水槽のなかにアピストグラマアガシジィ、ミクロラスボラエスペイ、ミクロラスボラハナビ、ゴールデンテトラ、ヤマトヌマエビという5種のみ。

アロワナのような大型の魚を飼ったことがないので、今後は120㎝の水槽でアジアアロワナを飼いたいです。

【ビール】

ビールとの出会いは大学時代。

第一印象は最悪。

「苦くてまずっ!」でした。

その後、生ビールを飲んだ頃から味覚に変化が始まる。

大きく味覚が変わったのか、だんだんとビールが美味しくなり、生粋のビール党に。

ビールのおかげ?で嫌いだった食べ物も食べれるようになりました。

現在、ほぼ毎日飲んでおり、ビール以外はほとんど飲まないです。(ビール以外も飲めます)

IPAなどの苦みの強いビールにハマっています。

好きなIPAビールbest

  ●第一位 インドの青鬼(ヤッホーブルーイング)

  ●第二位 ライズアップIPA(越後ビール)

  ●第三位 グランドキリンIPA(キリンビール)

ちなみに・・・IPAとは、インディアン・ペールエールの略で、18世紀末にイギリスからインドへの長く過酷な輸送に耐えられるようにアルコール度数を高め、劣化防止に効果のあるホップを大量に入れたことから生まれたビール。「これもおいしいよ!」というビールがある方、是非教えてください!

【旅行】

小さい頃から夏休み最終週に5日間くらいの家族旅行に連れて行ってもらっていました。

勝守家にはその旅行前に必ず夏休みの宿題を終わらせないと連れて行ってくれないというルールがあったんです。

旅行の1週間前くらいから詰め込んで宿題を終わらせていましたね。

出発前日の夜は眠れないくらい心が浮き立ってとても興奮していたのをよく覚えています。

もちろん今でも旅行で感じる高揚感は変わらないです。

大学生時代には初めて海外に行きました。

初海外はカナダで、自然豊か、夏なのに涼しい場所もあったりと、あっという間の1週間でした。

その後、香港、オーストラリア、またまたカナダ(笑)、アメリカ、グアム、スペイン、フランス、ドイツ、イタリア、タイ、フィリピン、台湾の11ヵ国に行っています。

ここ4~5年はあまり行けていないので、行きたいですね。

カナダにホームステイしていた時に現地の語学学校で友達になったスペイン人夫婦に、その後のスペイン旅行でマドリード市内を車で案内してもらったこともありました。

ドイツでの本場のビールを飲んで過ごした4日間も最高でしたね。

最近は、歩きながらその土地の町並みや文化を味わうというよりは、海のあるリゾート地で、目の前に透き通るような海を見ながら浜辺でゆっくりビールが飲めるような、そんな旅行先が多いです。結局、ビールなんですよね。(笑)